戦後70年を過ぎ、私が今、思うことを少し書いてみたいと思います。
私は、父が50歳、母が40歳の時の一人っ子です。
私の父は、大正8年生まれで、20代のころ、第二次世界大戦では、択捉島から真珠湾攻撃に従軍し、瑞鳳や飛龍といった航空母艦に乗っていました。
最後は、飛龍が沈んで、海に投げ出され、何時間も立ち泳ぎせざるを得ない状態で、ふかに食べられるのではないかという海域を漂いながら、たまたま通りかかった日本の食料船に拾われ、九死に一生をえました。しかし、その食料船ですら、米軍の船が追尾していたといいます。
つまり、私は「奇跡的に」この世に生を享けたといっても過言ではありません。
ある意味、おじいさん、おばあさんに私は育てられたようなもので、父母の影響で、私の「戦後」に対する歴史観は、同じ世代の友人たちとは少し違っているかもしれません。それは、戦争の生々しい体験を直に聞く機会が多かったですし、関心も人一倍強かったように感じるからです。
そんな父が晩年急に泣き出すことがありました。父の弟、磯二さんのことを思い出すときです。父の後を追い、志願して海軍に入り、沖縄戦に送り込まれ、帰らぬ人となり、遺骨も出てきませんでした。父は自分が海軍だったので、馬乗りの上手な弟に陸軍ではなく、海軍を薦め、おじさんも父の勧めに従い、新兵となりました。その結果、沖縄に行くことになり、亡くなってしまった。運命なのですが、父は自分のせいだと思い、弟のことを思い出し、悔やんで涙をこぼすのです。
私が、「沖縄」に対して特別な思いがあるのも、そのせいかもしれません。
そのため、八女にあった先祖の墓を福岡市に移してからは、必ずお墓参りをした後、私たち家族は、護国神社に行き、英霊として祀られている父の弟、私のおじさんに逢うために、お参りに行っていました。お骨もないので、当時、「英霊として靖国に帰る」と信じて亡くなった若い命の思いを尊重し、敬意をもって、私たちは護国神社へおじさんに「会いに行く」のです。家族みんなに優しい父でしたが、今年3月に96歳で他界いたしました。通夜・葬儀にはたくさんの皆様にご参列いただき、感謝に堪えません。本当にありがとうございました。
家族で墓参りの後、福岡県護国神社のみたままつりに行った時の写真(上)と沖縄に行ったとき平和の礎に叔父の名前を確認した記念に撮った写真(下)
そして、2016年5月26日・27日には、日本で伊勢志摩サミットがあり、歴史的な出来事として、5月27日、アメリカのオバマ大統領が、初めて被爆地・広島を訪問しました。
さて、昭和22年に全国行幸なさっていた昭和天皇は、その年の12月7日、核攻撃から2年4カ月後に初めて広島をご訪問なさいました。
当初、マッカーサーをはじめGHQは、行幸中、日本人が昭和天皇に罵声を浴びせたり、石を投げたりするのではないかと想定していたそうですが、逆に、全くそのようなことは起きず、GHQは当惑したそうです。そして、米国が核攻撃をした広島への行幸を慎重に見守った結果、整然と天皇陛下をお迎えする多くの広島における日本人の姿を見たとき、GHQは、天皇と日本国民の絆を恐れ、以降の行幸を一時禁止する事態となったとのことです。
このように多くの戦前派・戦中派の日本人たちこそ、戦争を戦い、傷つき、斃れ、それでも戦後復興を成し遂げ、この17年後には東海道新幹線、東名高速が開通し、東京オリンピックが開催されるまでに復興していくのです。
父や母が生きた時代、その時代に生きた先達が、どのような思いで、「今」を生きていたのか?
そんなことを考えながら、今年も8月が来て、広島・長崎の原爆の日、終戦記念日とともに、父の初盆を迎えました。
昭和天皇の遺志を引き継がれ、天皇陛下は、宮中祭祀という「祈り」と被災地などを訪問する「行幸啓」を誠実におつとめになってこられました。
「国民とともに歩む」皇室の在り方はどうあるべきかを、美智子皇后とともに真摯にお考えになりながら、まさに全身全霊をもって「象徴の務め」を果たしていらっしゃったのです。
その陛下が以下のようなお言葉をお述べになり、広く国民に分かりやすくお話になったということは、やはり日本国民として重く受け止めるべきと考えます。
時まさに、リオ・オリンピックが開催され、日本人選手が多くのメダルを獲得し、2020年の東京オリンピックに向けて日本が次のステージを目指そうとしている時代になりました。ページがめくられる「とき」を迎えたのだと思います。
日本の伝統、美徳を大切にし、日本国憲法に謳われている「平和主義(戦争の放棄)」の精神を世界に向けて発信していきたい。唯一の被爆国である日本が核武装などしたら、核兵器を持ちたい国に言質を与えてしまうことになります。
戦後70年を過ぎ、日本の「平和」、世界の平和を考えるとき、次世代のために、我々に与えられた「責任世代」をしっかりと全うし、戦争を知らない日本人が90%を超えるようになった日本において、日本の「戦争体験」を風化させず、日本のアイデンティティとして訴え続けていかなければならないと強く思っている次第です。
【天皇陛下のお言葉】※ご参照
戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。
私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いをいたすようになりました。
本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えてきたことを話したいと思います。
即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いをいたし、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ケ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
始めにも述べましたように、憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。 国民の理解を得られることを、切に願っています。
今年3月9日に亡くなりました父の初盆に際しましては、たくさんの皆様にご弔問いただき、誠にありがとうございます。謹んで御礼申し上げます。
岳 康宏 拝